4月基礎講座を開催
「森下先生と”碑”を巡る」フィールドワーク

「森下先生と”碑”を巡る」フィールドワーク
参加下さった皆様、ありがとうございました。
 
当日、スタッフの時間配分が上手くいかずに、予定の時間が来てしまい、最後までご一緒することが叶わなかった皆さんに、心よりお詫び申し上げます。
 
アンケートを送って下さいました皆様、ありがとうございました。
以下、共有可能とご記入下さった皆様のアンケートです。
 
他写真はWFC公式Facebook
 
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つたえる講座4月アンケート
 
(60代)
ローマ法皇の碑文の文字森下先生のものだったことや、碑を建立する時、原田東岷先生活躍されたことを全く知りませんでした。WFCと関わりのある碑だったのですね。バーバラさんの碑が作られる時の広島市との交渉なども聞き、WFCが広島の平和運動を推進してきていたのだなと思いました。
ローマ法王の言葉「ヒロシマを考えることは核戦争を拒否することです」を核兵器が使われるかもしれない不安な今、丁寧に読み直すことができてよかったと思います。森下先生が戦争や核兵器反対の活動をこれからも「今だからこそ」続けていくことを最後に話された言葉が、ローマ法王の言葉に重なりました。
今の状況に無力感を持つのではなく、できることはあると思いました。
スタッフの皆さん、よい会を企画してくださってありがとうございました。
今日、森下弘先生の魅力に圧倒されました。
 
(60代)
今もなお、核兵器保有で他国を威す戦争が続く中、戦争のない平和をのぞむ訴えは、戦争を直に体験した方のお話しを聞いて、その残忍さを実感することで、強くなる。今日の森下先生のお話しはこれまでになく実地でなされ、克明に、その場を思わせていただけるものでした。今後、このようなお話しをお聞きできないと思っております。貴重なお話しでした。
 
(50代)
人に誘われて参加したので、どんなものなのかあまり知らずに出かけましたが、参加して本当に良かった。悲惨な光景の写真やお話を聞くよりも、はるかにリアルに感じられました。特に、森下さんが被爆直後に意識があったのかなかったのかがわからない、夢を見ているようだった、というお話がリアルに迫ってきました。国泰寺高校の碑の前でお祈りしている森下さんの姿を見て、大勢の同級生や下級生が一度に亡くなったということが、遠い過去の他人事なのに、やはりリアルに感じられました。現場で直接聞くというのは、伝わり方が全く違うものなのだと思わされました。
それから、途中で立ち寄ったさまざまな碑を見ながら、気づかぬところに多くのものがあることを知ることができ、大変貴重な経験になりました。
企画をしてくださった方、森下さんに、感謝申し上げます。
 
(60代)
被爆された方がどんどん少なくなっていっている中、昨日は森下さんの貴重な体験聞かせて頂き、大変有難かったです。しかもどこかの会場でお聞きするのではなく、被爆された現地で直接聞かせて頂けたのは、当時の様子を想像出来、原爆の怖さを知るのに少しでも近づけたのでは、と思います。
「ヒロシマの火 平和への灯」については、左の火のモニュメントしか気づいていませんでした。
バーバラ・レイノルズ記念碑、何度も見ていましたが、森下先生が書かれた字だと初めて知り、「ヒロシマの火 平和への灯」や、ローマ法王平和アピール碑と共に、とても近く感じる様になり、森下さんの思いも深く理解出来るようになりました。やはりフィールドワークの力は大きいと感じます。
新しく知ったことも多く、収穫の多い半日でした。
森下さん、いつまでのお元気で活動続けて頂けたら、と願って止みません。
有難うございました。
 
(70代)
水辺に座り「ここで被爆した友と向き合い、どんな顔をしてるかと聞かれて、皮膚はむけて垂れ下がっていたのを覚えているが、自分はどうだったか分からない」と、その日のことを静かに語られる森下弘さんの話に耳を傾けながら、波紋を繰り返す川面を見つめていた。「人々の叫びやうめきと共に、蚊の大群のワーンという音が襲ってきたんですよ」の言葉に、私はめまいのようなものを感じ思わず後ろの石垣に身を寄せた。77年前の声々が私にも無言の圧となって襲ってくるようであった。
実際の場で体験者の方からじかに聞くお話は、室内で椅子を並べて聞くのとは違った臨場感をもたらした。
それでも時に口元に笑みを浮かべられる時も在り、なんと優しいいいお顔だろうと一息つく思いであった。お母さまが美人であったと書いておられたが、その笑顔を受け継いでおられるのであろう。
絵に添えられた「ヒロシマの顔」の詩や、バーバラさんの碑に書かれた「私もまた被爆者です」などの森下さんの書の力にも触れることができた。
ヒロシマの悲惨から、武力による争いは誰をも幸せにしないし、真の解決にならないことを人間は学ぶべきだし、被爆者の皆さんは一身をかけて訴えて来られたはずだ。
21世紀の今になって「こんなことが起こるとは」と、私たちの毎日を悲しませるロシアのウクライナ侵略という現実のただ中にあって、もう一度「殺すなかれ」の思いを深め、人間のおろかなしわざである戦争に、人間の言葉という武器で立ち向かっていかねばならないと、何度も何度も思いながらのフィールドワークの1日であった。
森下さん、ありがとうございました。しっかり歩かれる姿に励みを頂きました。
森下さんが中学3年生であったあの日、私は愛知の地でよちよち歩きでした。
「もう年だから」なんて言い訳を言っておられませんね。
どうぞ、お元気でお暮らしくださいますように!
 
(60代)
森下弘さんから直接、話を聞くことで、学業ではなく戦争に翻弄されていた当時の学徒の日常を具体的に知ることができました。
「戦闘機のエンジンピストンや銃の研磨、爆撃による家屋の延焼を抑えるための防火帯を造るための建物疎開作業」
「爆撃を受けた際の訓練として、身を伏せる、息を吐く、大気の陰圧から眼球が出るのを防ぐ目的で目を抑える」
また、被爆直後の理不尽に大やけどを負わされた人々の様子と混乱、不安な心境、戦後もトラウマに困惑する気持ち、過去の人類の過ちに重ねて、ロシアのウクライナ侵攻から今後の展開を危惧されていることも聞くことができました。
平和を希求するヒロシマの役割を再認識させられました。
 
(70代)
「森下先生と碑を巡る」
森下先生、大変有難うございました。
印象深かったことなど箇条書させて頂きます。
①先生が大変お元気に歩かれ語られて嬉しかったです。
②鶴見橋下の護岸で被爆当時を語られる誠実な先生の御姿は永久に脳裏に残ります。
③詩「夏になると子供たちは裸がすき・・・・真っ黒こげの幼児がよみがえってくる」とスケッチ「閃光・熱線・瞬間」に強く心を揺さぶられました。
④廿日市高校を1964年3月に卒業しましたが、先生は同年に世界平和巡礼に参加されたのですね。
在校中には原爆・被爆の話をされることはまだ無かったと記憶しています。
⑤参加された方々と話が出来たこと皆様の真剣さが印象的でした。
お世話されたWFC事務局の皆様ありがとうございました。
 
(60代)
とても勉強になりました。ありがとうございました。
現場でお話を伺うことで、体験された事実がより鮮明に迫ってくるような感覚で話にじっと聞き入りました。
当時、訓練を受けていた、目と耳を押さえて息を吐いてその場に伏せるという行為の意味もよく分かりました。原爆時、材木町あたりで、目玉が飛び出してしまった学徒が多くいたと聞きましたが、目を押さえることが間に合わなかったのですね。
ルーテル教会玄関前の原爆の絵について、移設された経緯を聞き残念でなりません。広島に住む市民こそ、惨状を忘れてはならないのに、目にしたくないという声が上がるとは。「忘れない。くりかえすな。」と訴えていくのは広島の使命と思っています。人目につきにくい場所にあるのはとてももったいないことです。
一中の慰霊碑前では、しばらく慰霊碑の前で思いにふけっておられる先生のお姿が印象的でした。「鯉城の夕べ」を生で聞くこともでき、森下先生の青春時代を垣間見させていただくようでした。
ありがとうございました。
 
(50代)
森下先生は、ご自身の被爆後の道のりなどを辿られながら説明してくださいましたが、8月6日にそこにおられた時のことを、(一緒にいた校友のことと共に)頭での記憶(今まで証言してきた言葉を思い出すこと)というよりも、身体の記憶としてよみがえらせることで、体験を少しでも聞く人にきちんと手渡したく思って、そうされているのだろうと、一つ一つの場所をめぐりながら感じました。記憶がはっきりしていることと、曖昧なことが混ざっていて、それがかえって体験そのものを語っていらっしゃるように感じられました。 平和公園の碑巡りをする機会がこれまでに何度かありましたが、今回ご一緒させていただいた所は、初めて訪れるか、通っていてもそれに気をとめたことのなかった所ばかりで、まだまだ自分の知らない原爆を証言している場所がたくさんあることを痛感しました。 貴重な体験ができ、ありがとうございました。 中国新聞の『生きて』の連載とちょうど重なっての講座でしたので、先生の語られるご様子を思い出しつつ続けて読んでいこうと思います。
 
(60代)
森下先生の体験を実際に現地で伺い、その壮絶さをより身近に感じることができました。凛として体験をを語られる先生の姿に、先生の平和に対する揺るぎない決意を感じ勇気づけられました。
国泰寺高校の碑の前では、改めて多くの若い命が失われたこと、二度と同じような犠牲がでることがあったはいけない、と強く思いました。
一中の二年生といえば、その時の担任の先生の判断で、八月六日自宅修練(休み)となり、被爆死を免れたクラスがあったと聞いています。大先輩の先生からこの話を聞いた際、「生徒の生命、安全を守るための最終的な判断を、教員が個人で下さなければいけない時がある。生徒の生命、安全を守ることが教員の最大の義務。それを忘れないように。」と言われたことが、今でも忘れられません。
しかし、戦後助かった生徒さんたちは、自分たちだけが助かった、と負い目を感じて過ごされたのでは、と思います。
森下先生は、この担任の先生の判断をどのように思われているでしょうか? もし、差し支えなければ森下先生の思いを、いつかお聞きしたいなあ、と思いました。
森下先生には貴重なお話をお聞かせいただき、またWFCの方々には貴重な機会を提供していただき、ありがとうございました。