友愛9月号—新館長ロジャー・キャシー エドマーク

友愛
特定非営利活動法人ワールド・フレンドシップ・センター機関紙

Directors_RogerKathyEdmark ワールド・フレンドシップ・センターの新館長、ロジャーとキャシー・エドマークからご挨拶申し上げます。私たちは広島に来て1か月余りですが、WFCで楽しく過ごしています。WFCのボランティアやスタッフの皆様全員に暖かく迎えていただき感謝しています。


ロジャー・エドマーク

 私はアメリカ合衆国ノースダコタ州で生まれました。私が1歳になる前に、両親はシアトルに転居しました。彼らは私と姉を車に乗せて、暖かい気候とより良い働き口を求めてシアトルに向かったのです。1週間もしないうちに父はボーイング社に就職しました。その22年後に、私もボーイング社で働くことになりました。

 私は小学校からハイスクールまで学校教育の全てをシアトルで受けました。大きくなるにつれて私は野球が大好きになり、ハイスクールではずっと野球をしていました。私はいつもスポーツが好きで(野球、ソフトボール、バスケットボール、ゴルフ、その他)競技やコーチ、観戦など何でもしました。ハイスクールを終えると、私はシアトルの老人ホーム、ノースホームで働いて鍋や釜を洗いました。私はシアトルのワシントン大学に入学してからもそこで働き続けました。初めは建築学を学びましたが、最終的には哲学の学士号を取りました。卒業後、私はボーイング社で主に空力学工学技術の分野で43年間勤めました。私の業務は海外出張が多く、日本の東京には頻繁に訪れました。

 50歳代の時、医者から心臓に雑音があると告げられました。その雑音は大動脈弁の先天的な心臓欠陥が原因でした。正常で活動的な生活を送りたければ、治療してもらう必要がありました。そこで私は57歳の時、不完全な弁を新しい人工弁に取り換える手術を受けました。今では、私の心臓は時計のように働いて、本当に1秒間に1回鼓動しています。私の孫たちは私の胸に耳を押しあてて、私の心臓の弁の音がドクドクするのを聞くのが好きです。これらのことを通じて、人がどれだけ長く生きられるかを保証するものは何もないということを考えさせられました。ですから、私たちは巡り来る一日一日を大切にしなければなりません。


キャシー・エドマーク

 私はアイダホ州のトウィンフォールズで生まれました。私の両親は私が4歳の時、教会からの招きに応じて宣教師として宮古島に赴任しました。それから11年間、私は途中1年のシアトルを挟み、日本の宮古、神戸、沖縄に住んでいました。15歳の時、シアトルに戻ってハイスクールの最後の2年間を終了しました。ハイスクールの最終学年の時、私もノースホームで働き、そこでロジャーと出会いました。そして3年後、私たちは結婚しました。

 結婚してからの最初の仕事は家庭の主婦で、4人の子供たちが全員学校に入るまでずっと育児にかかりきりでした。その後教会の招きに応えて、宗教教育の指導者として2年間奉仕しました。それから子供たちが通っている学校区の教育補助員になりました。私はその学校区で25年間働きました。

 私の特技の一つは裁縫です。私の祖母は私が幼いころから裁縫を習わせました。その他は型紙の指示で技能を身に付けました。バービー人形の洋服を作って販売したのが私の初めての仕事でした。十代の頃には自分の洋服を何着か作りましたし、ウェディングドレスも自分で作ったのです! ある時は息子の三つ揃いのスーツも入れて4人の子供たち全員の衣装を作り、家族写真を撮りました。娘のエイミーのバレー学校のためには、短いチュチュも含めて沢山の衣装を縫いました。長女のウェディングドレスと付添人のドレスも私が作りました。次女は既製品のウェディングドレスのお直しだけで私の面倒を省こうとしましたが、私はそれを全部ほどいて作り直しました。1枚の布地を手にして何か綺麗で役立つものを作り出す時、裁縫は最高に気持ちいい達成感を与えてくれます。今は手の痛みのため以前ほど縫いませんが、広島に来てからロジャーのワイシャツを手縫いで4枚も手直ししました。裁縫は役に立つ技能です。

 信仰に導きかれて、私は教会で大変積極的に活動しました。私は人生の殆どを教会の日曜学校の先生として過ごしました。大抵は子供たちですが、若者たちや成人も教えました。宗派を超えて聖書研究をする聖書研究同好会は、7年間私の人生の重要な部分を占めました。その頃一時期は、子供たちのためのプログラムでも働きました。2年前に私たちの娘が、教会のキャンプ・コイノニアのキャンプ・会議センターの給食管理者になり、私に彼女のボランティア助手にならないかと誘いました。それで約1年間、私たちは半分の時間はキャンプで、半分の時間はシアトルの北の私たちの家で暮らしました。キャンプは移行期だったので、ほぼ同時にロジャーがそこの開発ディレクターになりました。


キャシーとロジャー

 1973年に結婚して2か月後、私たちは別の老人ホーム、ノースアベンで二組の管理人夫婦のうちの一組にならないかと頼まれて、そこで1年半暮らしました。それが46年間に及ぶノースアベンとの関係の始まりでした。ロジャーは36年間その理事会の一員で、つい最近は理事長でした。現在彼は名誉理事です。

 地元シアトルの私たちの教会は、ブレザレン派のオリンピックビューコミュニティ教会です。ブレザレン教会はアメリカ合衆国の歴史的な平和主義の教会です。私たちは、ブレザレン教会のブレザレン・ボランティア・サービス(BVS)でWFCのことを知りました。私たちは子供たちが小さい頃から教会の活動や指導的な立場に関わってきました。

 私たちの家族は戸外で過ごすのが大好きでした。私たちは子供たちが野外を好むように仕向けたのではないのですが、たまたまそうなったのです!彼らは皆自然の驚異と美しさが大好きです!今気に入っている場所は、私たちも一部の所有権を持っているビーチハウスです。それは我が家から1時間ほど北に行ったところの海岸に建っています。この浜辺のキャビンで私たちはカヤックを操ったり、浜辺を散歩したり、ハンモックでゆったり過ごしたり、いろんな事をして友人たちや家族と楽しみます。

 キャシーと私にとって、他の人のために奉仕するのは大切な事で、子供たちもまたこの事に引き込まれました。彼らもまた人生の中で、他人のために奉仕する職業やボランティア活動を選びました。私たちは15年前にWFCの事を知り、たちまち興味を持ちました。14年前にロジャーが東京に出張した時にはWFCにも来ました。WFCに一泊して、広島の街を探索したのです。私たちの家には額に入った座右の銘が掛けてあり、「神は私たちの能力や能力の欠如ではなく、求めに応じられるかどうかをお尋ねになります。」と書かれています。私たちはWFCの仕事に応じられるように準備し、WFCでボランティア館長をするようにという神の意思に招かれて、今ここにいます!ここに赴任してまだ短期間ですが、もう多くの素晴しい人々に出会い、多くの興味深いゲストたちのホスト役を務めました。WFCの使命がいかに重大であるかも分かってきました。それは、特に被爆者の話を聞いて対話を通じて、人々との一期一会の関係を築くことです。それによって世界中からの人々に平和のメッセージを伝え、同じ思いを共有できる場所を提供することなのです。


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