友愛12月号—WFCインターンでの感想 ナタリー・クカ

友愛
特定非営利活動法人ワールド・フレンドシップ・センター機関紙

WFCインターンでの感想
ナタリー・クカ


5月の終わりに、WFC理事の一人である立花さんが、在日韓国人の歴史ある地域の社会館訪問に私を招いてくれました。それは、私の日本研究で興味ある分野の一つでもありました。立花さんは、その社会館でのデイサービスで仕事をされていたことがあったので、社会館の館長の施設案内とその歴史を伝えて下さる機会を作って下さいました。その案内で私の興味はふくらみ、その施設で一週間奉仕させていただくことを申し出ました。施設で初めての金曜日は少し大変でした。誰も英語をしゃべらないので、非常に緊張しましたし、私の日本語力に頼るしかありませんでした。私は、放課後の講習で、小学校1年生と3年生を担当しましたが、彼らと日本語でうまく意志の疎通がとれないことが度々あったので、とても緊張していました。子どもたちのほとんどは、私の出現にとても驚き、多くの生徒たちは私が日本人かと尋ね、私がアメリカ人というと、さらに驚いたようです。子供たちは、私に近づくときはとてもはにかみ、「外人?」あるいは「よそ者?」と、小さなグループでささやきました。徐々に、女の子のグループが、私の周りでくつろぐようになり、私の金髪にさわったり、青い目をじっと見つめながら、私の家族や飛行機旅行についていろいろな質問をし始めました。施設での二回目の金曜日には、もっとゆとりができ、すべての人や物事が目に見えてうまく行くようになりました。私は、ずっと気楽に日本語を話していたようにさえ思いました。確かに、生徒たちは小1、小3でしたが、彼らの早口広島弁に対する私の理解力は、著しく上達していました。

更に、5月と6月の第三木曜日には、研修仲間のヨヴァナ、館長のバーブとダニー、そして数人のWFC理事たちと被爆者養護ホーム(むつみ園)で奉仕しました。むつみ園での最初の日は、ヨヴァナと私二人共が、ステージの上で日本語による自己紹介ができ、地域のアマチュアグループのハワイアン・フラダンスを観ることができて、楽しかったです。6月には、WFC理事長の美智子さんから、養護老人ホームの人達の為にささやかな出し物を用意してほしいと頼まれました。当然ながら、ヨヴァナと私は、すべての年齢の人々が楽しめるビンゴゲームをすることに決めました。私達は、勝った人のための景品を三つ用意し、日本語の数字を大声で叫びながら、勝った人を喝采するのがとても楽しかったです。おばあさんたちは、景品など期待していなかったので、勝った人がWFCのボールペンを取得した時は非常に興奮していました。

ヨヴァナと私は、広島にいた5週目に、重要な任務を委ねられました。館長達が週末に休暇を取ることになっていたので、ヨバヴァナと私に任務が託され、私達の能力に対する館長達の信頼を非常に光栄に思いました。バーブとダニーは土曜日の朝出発し、ヨヴァナと私はすべて自分たちの力で9人全員の朝食を用意しました。幸いにも、母親の美怜さんと一緒に来たレオナとマイラがその週末の演技の為にWFCに滞在していて、私達の不安を解消し、責任者としてのいくらかの重圧を取り去る手助けとなりました。私達は、問題なく朝食を用意することができ、朝食の間、カリフォルニアからのゲストと信じられないほど素晴らしい会話のやり取りをしました。このゲストグループののんきな性格が皆を非常にホッとさせるものがあり、私達は何の問題もなく任務を果たしながら、週末の時をずっと過ごすことができました。グループの被爆者証言を担当した壮さんが、彼の手作りうちわと彼の所有する桜の木で作った手細工の木製鉛筆をプレゼントしてくれました。彼の寛大さは、WFCですべての人がみせてくれるあらゆる思いやりと寛大さの良い例となっています。ヨヴァナと私は、WFCの理事を私達の優しいおばあさんと呼ぶようになりました。というのは、その人達はいつも面白い会話で私達を甘やかし、果物や甘いものを持ってきてくれました。

月曜日と火曜日の修道大学に加え、水曜日にはWFCの英語クラスに加わりました。毎回のクラスで生徒さんたちが発表する熟練した流暢さに、私は非常に感銘を受けました。そのクラスは、生徒さんの中の一人が、たいていは、戦後の広島の歴史とかメンバーの家族の原爆投下時の経験などを含むお話を英語で発表することで始まります。このクラスはとりわけお茶を出す休憩時間を必ず取り、お互いにお菓子を分かち合います。つぎの半分の時間は、復興に奮闘した元広島市長、浜井信三の自叙伝を英語で読みます。このやり方は、特に生徒さん達が新しい単語を記億し、理解するのに非常に効果的だということ発見しました。事実、私は、このやり方に非常に刺激を受け、二冊の日本語版の本を買い、自分で翻訳してこれらの本を読もうと思っています。

ヨヴァナと私は、10人の被爆者証言を聞くという信じられないほど素晴らしい機会を与えられました。これらの証言は、73年前の同じむしむしする8月初めの朝を詳しく述べますが、各々の被爆者の経験とその人たちが立ち向かった災害や教訓は違った形で、すべて明らかにされました。彼らの力強い心動かすお話は、反核運動への大切さを私に強く気づかせました。高校で第二次大戦の太平洋戦区について学んでいた時、広島・長崎の原爆投下はアジアでの10年に及ぶ戦争に終結をもたらすのには選択の余地がないほど必要であったと思い込んでいました。歴史のクラスでの話し合いの間、アメリカ政府側の考えすらとっており、原爆投下は必要だったとはっきり述べておりました。ほとんどのアメリカ人にとっての本当の問題は、日本との戦争終結に対する教育には、信じられないくらいの偏見があったということです。日本国民は、アメリカ軍進行の際は、女性や子供たちが、竹やりでアメリカ兵士を攻撃するというように、天皇や軍国主義政府に対して猛烈に忠実であったと表現されています。アメリカは、数百万の若いアメリカ人の命が日本との戦いで失われたかもしれないので、広島と長崎は、日本全体で同じ目に合うという見せしめであると主張しています。歴史の教科書の中には、アメリカが日本進駐以前の数か月、多くの大都市へ爆撃を行ったことについて、あまり述べられていません。これらの爆撃中、教科書がアメリカの力の実証として指し示しているような広島・長崎と似た状況にいたるまで、何百ものB24とB29が都市を破壊し尽くしました。爆撃と原獏投下の違いは、後者は、多くの爆弾ではなく、一つの爆弾によってなされました。これらの歴史の本は、アメリカ海軍が、市民と兵士のための貴重な資源の輸出入を妨げる為に、日本を完全に封鎖していたことを述べていません。学生たちは、田舎で食料や他の資源を得るために動員され、起こりうる侵攻を竹やりで阻止するためにしばしば訓練されましたが、原爆投下の時には、日本は餓えに苦しんでおり、女性や子供たちは栄養失調で死にかかっていました。その上、放射線の悪影響による知られざる荒廃状態は別として、原爆投下による物理的打撃は、爆撃された日本の30の他の大都市の被害とほとんど同一です。 私は学びましたが、広島・長崎の原爆投下は、私達の歴史の本が主張しているほど、日本の敗北の決定的要因ではではありませんでした。影響があとから出てくる放射線は、核戦争と原爆被害の最も悲惨な結末です。

被爆者と戦後の日本人の立ち直る力に、私はとても感銘を受けました。爆撃とその結果は悲惨でありましたけれども、生存者たちは皆生き続けるための物や人を見つけることが出来たために、生き残ることができました。そのような廃墟は、生存者にとっては重大な影響を持ちましたが、彼らの全てを奪うことなく、彼らの人となりや生き方を創造するもっと多くの要素がありました。すべての被爆者は、世界規模の平和と完全な非核化を強く望み続けております。彼ら自身の被害を埋め合わせるためではなく、核兵器や核による惨事がもたらす避けがたい破壊により、より多くの人々や、多くの罪のない人々が苦しむことがないようにするためにです。

広島での最後の週になると、広島がとっても好きになったヨヴァナと私は二人とも、帰国することを考えたくありませんでした。ここであった人達はいつまでも変わらない感銘を与えてくれました。そして、私達がここで学んだ歴史は、アメリカに帰った時、地域社会での積極的な平和活動へと私達を促し続けるでしょう。 私はこの研修期間にとても成長しました。そして、叶えてもらえた機会にたいして永久に感謝し、これを無駄にしないように一生懸命活動するでしょう。

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